子どもたちを生き辛(づら)くさせているものは、何であるのか。
雨ですね、、寒いです、、急に肌寒くなりましたね。
現状は何も変わらないのに、
時間だけが過ぎていくのは確かに感じることが出来ますね。
9月になりました。8月は大学の後期の授業もどうなるのだろう?
またオンラインかな?と何もまだわからない状態です。
小中学校は分散登校、オンライン授業。
保育園は普通にやってますが、、
小学生のオンライン授業って、、どうなんだろう?
なんのための?誰のための?って思ってしまうのですが、、
こんな記事が
大阪市立木川南小学校・久保校長の「提言」全文https://www.asahi.com/articles/ASP5N6KWMP5NPTIL00R.html
(リンク消えて見れなくなってしまうのかもなので
後からまた見直したい文章ですので原文のママ載せます。)
豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために
子どもたちが豊かな未来を幸せに生きていくために、公教育はどうあるべきか真剣に考える時が来ている。
学校は、グローバル経済を支える人材という「商品」を作り出す工場と化している。そこでは、子どもたちは、テストの点によって選別される「競争」に晒(さら)される。そして、教職員は、子どもの成長にかかわる教育の本質に根ざした働きができず、喜びのない何のためかわからないような仕事に追われ、疲弊していく。さらには、やりがいや使命感を奪われ、働くことへの意欲さえ失いつつある。
今、価値の転換を図らなければ、教育の世界に未来はないのではないかとの思いが胸をよぎる。持続可能な学校にするために、本当に大切なことだけを行う必要がある。特別な事業は要らない。学校の規模や状況に応じて均等に予算と人を分配すればよい。特別なことをやめれば、評価のための評価や、効果検証のための報告書やアンケートも必要なくなるはずだ。全国学力・学習状況調査も学力経年調査もその結果を分析した膨大な資料も要らない。それぞれの子どもたちが自ら「学び」に向かうためにどのような支援をすればいいかは、毎日、一緒に学習していればわかる話である。
現在の「運営に関する計画」も、学校協議会も手続き的なことに時間と労力がかかるばかりで、学校教育をよりよくしていくために、大きな効果をもたらすものではない。地域や保護者と共に教育を進めていくもっとよりよい形があるはずだ。目標管理シートによる人事評価制度も、教職員のやる気を喚起し、教育を活性化するものとしては機能していない。
また、コロナ禍により前倒しになったGIGAスクール構想に伴う一人一台端末の配備についても、通信環境の整備等十分に練られることないまま場当たり的な計画で進められており、学校現場では今後の進展に危惧していた。3回目の緊急事態宣言発出に伴って、大阪市長が全小中学校でオンライン授業を行うとしたことを発端に、そのお粗末な状況が露呈したわけだが、その結果、学校現場は混乱を極め、何より保護者や児童生徒に大きな負担がかかっている。結局、子どもの安全・安心も学ぶ権利もどちらも保障されない状況をつくり出していることに、胸をかきむしられる思いである。
つまり、本当に子どもの幸せな成長を願って、子どもの人権を尊重し「最善の利益」を考えた社会ではないことが、コロナ禍になってはっきりと可視化されてきたと言えるのではないだろうか。社会の課題のしわ寄せが、どんどん子どもや学校に襲いかかっている。虐待も不登校もいじめも増えるばかりである。10代の自殺も増えており、コロナ禍の現在、中高生の女子の自殺は急増している。これほどまでに、子どもたちを生き辛(づら)くさせているものは、何であるのか。私たち大人は、そのことに真剣に向き合わなければならない。グローバル化により激変する予測困難な社会を生き抜く力をつけなければならないと言うが、そんな社会自体が間違っているのではないのか。過度な競争を強いて、競争に打ち勝った者だけが「がんばった人間」として評価される、そんな理不尽な社会であっていいのか。誰もが幸せに生きる権利を持っており、社会は自由で公正・公平でなければならないはずだ。
「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中でなくてはならない。そうでなければ、このコロナ禍にも、地球温暖化にも対応することができないにちがいない。世界の人々が連帯して、この地球規模の危機を乗り越えるために必要な力は、学力経年調査の平均点を1点あげることとは無関係である。全市共通目標が、いかに虚(むな)しく、わたしたちの教育への情熱を萎(な)えさせるものか、想像していただきたい。
子どもたちと一緒に学んだり、遊んだりする時間を楽しみたい。子どもたちに直接かかわる仕事がしたいのだ。子どもたちに働きかけた結果は、数値による効果検証などではなく、子どもの反応として、直接肌で感じたいのだ。1点・2点を追い求めるのではなく、子どもたちの5年先、10年先を見据えて、今という時間を共に過ごしたいのだ。テストの点数というエビデンスはそれほど正しいものなのか。
あらゆるものを数値化して評価することで、人と人との信頼や信用をズタズタにし、温かなつながりを奪っただけではないのか。
間違いなく、教職員、学校は疲弊しているし、教育の質は低下している。誰もそんなことを望んではいないはずだ。誰もが一生懸命働き、人の役に立って、幸せな人生を送りたいと願っている。その当たり前の願いを育み、自己実現できるよう支援していくのが学校でなければならない。
「競争」ではなく「協働」の社会でなければ、持続可能な社会にはならない。
コロナ禍の今、本当に子どもたちの安心・安全と学びをどのように保障していくかは、難しい問題である。オンライン学習などICT機器を使った学習も教育の手段としては有効なものであるだろう。しかし、それが子どもの「いのち」(人権)に光が当たっていなければ、結局は子どもたちをさらに追い詰め、苦しめることになるのではないだろうか。今回のオンライン授業に関する現場の混乱は、大人の都合による勝手な判断によるものである。
根本的な教育の在り方、いや政治や社会の在り方を見直し、子どもたちの未来に明るい光を見出したいと切に願うものである。これは、子どもの問題ではなく、まさしく大人の問題であり、政治的権力を持つ立場にある人にはその大きな責任が課せられているのではないだろうか。
令和3(2021)年5月17日
大阪市立木川南小学校
校 長 久保 敬
『8・20日松井一郎・大阪市長が突然にオンライン学習を宣言して学校現場に混乱を起こしたことや教育行政についての提言書を市長に送った大阪市立木川南小学校の久保敬校長を、大阪市教育委員会(市教委)は「文書訓告」とした』
マジかと、、
もはやこんな人達がトップにいる組織に子供達の未来が託されてるのかと思うと絶望的でしかない。無力感。。
cocco。凄い歌詞、、
手段はたくさんあるけど肝心の目的がない
なんのために?なんでこれしてるの?教育ってなんだろう?学校って?
来年長男が小学生になるのと、小学生、高校生のテニス指導を行なっていたり、大学の講義も通じて考えることが増えました。
今の状況はしょうがないですけど、学び方も変わりますよね。
変わっていかないといけない。変わらないといけないのかも。
今まで以上に教える側は目的をしっかり決めて工夫していかないといけないです。
社会を支えて家族を支えてるもの、ましてや個人たらしめるものは何なのか?
働き方や生き方についても考え直すきっかけのような気もします。
大事なのは想像力ですね。色々と試されてます。
そして、未だに数字だけで判断されることが多いのか?
尚更その傾向は強くなっているのでしょうか?
そっちの方が管理はし易いですよね。
目指すのは易しい社会なのか?優しい社会なのか?
理論や方法だけが先行して建前の下に子供達が置き去りにされてるような違和感を覚えることがあります。なんだか窮屈。
それは本当は誰のため?
学校って何なんでしょうね?
僕自身は学校毎日行ってましたが、放課後の方が楽しかったですね
家にもいない、学校にもいない自由な感じが、どこにも属してない自由な時間が好きでした。
友達と過ごす時間が楽しかったのかな。
ただ、やらないといけないこと。僕には学校行事が多過ぎて、学校生活はもう送りたくないですけどね笑